2006年01月17日

人生で一番美味しかった酒

西武新宿線沿線の某バー。相変わらず寒い日で、常連の男性客が帰った後は、ぱったりと客足が途絶えてしまう。自分もいつもなら腰を上げる時間なのだが、冷たい風の中を帰る気にならない。マスターに「お替りお願いします。」と告げる。「こういう日はお客さんはもう来ないかもしれませんね。」とマスターが半ば諦め気味の笑顔で言う。

ふと思い出して、ある居酒屋の話をしてみる。すると、「その店は40年前からありますね。私もよく行ってましたよ。」とマスター。「へえ〜、そうなんだ。」「ええ、当時からぱっとしない感じの建物だったんですが、馴染みになるとサービスしてくれて・・・。40年もそのままなんてすごいですねえ。」「マスターにもつ焼きに焼酎なんて、なんだか似合わないなあ。」「いやいや、ああいう店に行くと癒されますよ。」「ほー。」ウイスキーやカクテルに誰よりも詳しいマスターにもそういう面があったのか。

「40年前というと、マスターは?」「修行時代ですね。厳しい店でね。酒もタバコも店では禁止でした。」「なるほど。」「それで仕事が終わって、新宿の西口会館の・・・今はもうないですね、とにかくその向かいが思い出横丁の入り口だったんですが・・・。」「今、鰻屋さんがある場所ですよね。」「そう、そこが立ち飲み屋だったんですよ。それも無人の。」「無人?」「そう、お金を入れるとお酒が出てくる販売機があって・・・日本酒が1杯50円。それでね。、仕事が終わった後、10円のピーナッツかなんかをつまみに、50円のお酒を飲むんですよね。その酒がねえ、なんでもない酒なんですけどね、美味しいんですよ。・・・美味しかったなあ。天下でも取った気分だったですよ。あれがこれまでの人生の中で一番美味しい酒でしたねえ。」

「人生で一番美味しかった酒」・・・自分にとってはどの酒だったろう。・・・そうだなあ、例えばあの時の酒・・・初めての1週間の出張。毎日忙しくてろくに寝る時間もない。やっと帰ってきて、その日は休み。今日は一日寝てやろうと思ったところに宅配便が届く。見ると出張先から自分宛に送った当地の地酒。ああ、そうだったと思いながら封を切り、グラスに注ぐ。一口飲むと爽やかに体中に染み渡るようだ。体が軽くなり、飲むたびにふわっとした感覚に包まれる。ああ、美味しいなあ。いつも飲んでいる酒とはまるで別物じゃないか・・・3杯目をグラスに注いだところで、眠気に抗し切れなくなる・・・。その酒も美味しかったが、マスターの「美味しい酒」には叶わないだろう。

誰にも修行時代といえる時期があり、その頃の不安な思いを託した酒の味は忘れられないものになるのだろう。マスターの横顔に、20歳の青年の凛々しい表情が重なる。「マスター、お客さん来ませんね。」「そうですね。次のお客さんが来るまで、責任をもって飲んでいってくださいね。」マスターが悪戯っぽく笑う。

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この記事へのコメント
素敵なお話ですね。忘れてはいけない何かを、思い出した気分です。自分にとっては、いつのどんな一杯だったのかな。ゆっくり飲みながらゆらゆらと考えてみませう。南の島は、梅雨?模様
Posted by ぴぐ at 2006年01月17日 19:02
ぴぐさん、こんにちは。
確かに、皆さんの「一番美味しかった酒」の話、聞いてみたい気がします。
南の島は雨ですか・・・なんだか幻想的ですね。
Posted by 寄り道 at 2006年01月17日 19:11
人生の中で一番おいしいお酒の味かぁ・・・
そんな風に思えるお酒と時間をすごしてみたいです。
Posted by nae at 2006年01月17日 21:24
湯島の琥珀で飲んだ、コニャック・ド・コニャックだなぁ、ぼくは。
その味は、二度と忘れることはないと思うし、二度と出合うこともできないかもしれないなぁ・・・

コニャックの中のコニャック・・・いい名前だよね。
そういう出合いができたことの幸せ。
一杯30,000円だったけど・・・
Posted by ジゲンACE at 2006年01月17日 22:15
寄り道さん、おはようございます。
人生の中で、一番美味しかったお酒…。それほど強烈に印象が残るようなお酒を飲む体験を、残念ながらまだしたことはないですねぇ…。
でも、つらい時、悲しい時、逆に楽しい時…。どんな時でもお酒は変わりなく自分を癒やしてくれたように思います。ぼくにとってはお酒とはいわば、大切な友人。そんな存在のように思います。
Posted by タマ at 2006年01月18日 09:18
おはようございます。人生で一番おいしいお酒?人生のやっと半分なので、これからが美味しいお酒にであえると思うのです。高いお酒ももちろん美味しいが、やはり自分が安らぎ、何かをやり遂げたとき・・それと大切な人と一緒に時間を過ごしている時のお酒かな〜あと半分の人生!美味しいお酒に出会えることを祈り仕事、子育て、妻として頑張ろう☆
Posted by ハイビスカス at 2006年01月18日 09:42
寄り道さん、こんにちは。

なんだか、懐かしい感じがいいですねぇ。
思い出の香りがするようで…

私の場合はひとり居酒屋のカウンターで長男誕生を祝った夜に呑んだ「焼酎のそば湯割り」と「鰹の刺身」ですね。…立合い出産だったので感極まって泣き通しでした。
Posted by チューバッカ at 2006年01月18日 14:23
寄り道さんどうも
人生の中で、一番美味しかったお酒…。
ゆっくり酒でも呑みながら
考えたいテーマですね
皆さんのお話を伺いながら
では
Posted by yaoshige at 2006年01月19日 18:26
naeさん、こんにちは。
確かにそうですね。その時、その時のお酒を大切に飲みたいと思います。

ジゲンACEさん、こんにちは。
それはすごいですね〜。また、それが「琥珀」で飲んだというのがいいです。とても羨ましいです。
Posted by 寄り道 at 2006年01月20日 19:13
タマさん、こんにちは。
「お酒は大切な友だち」ですか・・・いい言葉です。確かに最も自分のことを見つめるには、お酒が一番のように感じます。

ハイビスカスさん、こんにちは。
頼もしいお言葉です!そうですね、中でも大切な人と飲むお酒というのは格別ですね。自分もこの正月に久しぶりに親友と飲んで楽しかったです。

Posted by 寄り道 at 2006年01月20日 19:17
チューバッカさん、こんにちは。
いい話ですねえ。奥様もお子さんもきっと幸せでしょうね。「焼酎の蕎麦湯割り」・・・飲みたくなって来ました。

yaoshigeさん、こんにちは。
自分も思い出せそうで、思い出せないような気がしています。それを思い出すうちに、様々な大切なことが蘇えって来そうです。
Posted by 寄り道 at 2006年01月20日 19:20
読んでいて感動しました。
何か、じーんと胸に響き渡る話だなぁて思いましたよ!
どんなに高級な酒の美味さにも劣らない、思い出の味‥
いいよねぇ。
こんなお酒を呑んでみたいですね。
Posted by ネコさん at 2007年06月22日 05:43
ネコさん、こんにちは。
読んでいただいて、ありがとうございます。
世界中の酒の味を知り尽くしているマスターの言葉だけに、印象的でした。
これからも、よろしくお願いします。
Posted by 寄り道 at 2007年08月03日 16:34