一つの店が街にあることは、街の人々の思い出を作ってきたということだ。だから、その店が無くなることは、単に不便になるとか、そういう問題ではない。自分の中の時間が切り取られていくような寂しさを街の人々に与える。
閉店の張り紙が出てから、店の前を通る時に何か落ち着かない気持ちになった。思い出が風にさらわれていくような、そんなざわざわする感じ。だから、思い立って今日(4/30)、あと何時間かで長い歴史を終える店の片隅に座る。注文は「ブレンドコーヒー」。先客は白髪の年配の男性一人。
中杉通りに面したお気に入りの席に座って、コーヒーをゆっくり飲んでいると、様々なことが思い出される。漫画家と編集者の熱く、はてしない議論を聞いたこともある。「理想?理想って何だよ!」って漫画家の方が何度も叫んでいた・・・。ある俳優さんが、「人生を懸けて沖縄に演劇の学校をつくる」という決意を奥さんに話している場面に出くわしたこともある。その日は雨が降っていて、お二人は店を出ると、一つの傘に寄り添って駅の方に歩いていった。その背中に向かって「ご成功を祈ります」と呟いた・・・。
そんな様々な場面の中で、一番印象的だったのは、やはりこの席に座ってコーヒーを飲んでいた時のことだ。それは、7月の終わりで、よく晴れた暑い日。冷房が程よく効いた店内は、ほとんどの席が埋まっていた。自分の隣の席には大学生らしい男女が座っていて、夏休みの宿題らしいレポートの話をしていた。途切れ途切れに聞こえてくる話からすると、女性がこの街に住む男性を呼び出したらしい。
女性は、男性が話すレポートのアイディアを熱心にメモしている。レポートの話が終わると二人の会話は途切れた。やや間があって女性が「この前はごめんね。」と言う。「もういいよ。」と男性が答える。また沈黙。・・・「彼とはうまくいってる?」と男性。「うん、うまくいってるよ。」・・・沈黙・・・「じゃあ、私・・・帰るね。今日はありがとう。」・・・沈黙・・・女性が席を立つ。
その後だ。残された男性が声をあげて泣いたのだ。涙をぼろぼろ流して・・・。店中に切ない空気が流れる。そこにお店の方が近づいてきて・・・「アイスコーヒーをどうぞ。」と優しい声で言いながら、グラスをテーブルに置く。男性は何度も「すみません。すみません。」と呟きながら泣き続けていた・・・。
何があったのかは分からないが、何かが彼の中で終わったのだろう。そして、泣き終わって店を出た時、また何かが始まる・・・。彼にとって、この店は苦さと優しさの入り混じった感慨を持って思い出されるのだろうか・・・。
コーヒーを飲み終えて、席を立つ。最後だからこそ、いつも通りに会計を済ませて店を出たいと思う。寂しさを抑え、何気なさを装って外に出る。道行く人々が、ガラス越しに店の中を確認しながら歩いていく。それぞれの思い出を胸に抱きながら・・・。