中野駅北口、午後8時20分。細かい雪が暗い空から落ちてくる。本格的に降り出すのはもう少し後の予報だ。傘をさす程ではないが、時折頬に雪を感じる。手と足の指先が冷たい。そんな中、北口のロータリーでは、女性のストリートミュージシャンの歌声に熱心に聞き入る人々がいる。人垣の中で、手を差し伸べながら、心を込めて歌う若い女性が見える。歌いながら、まなざしは遠くを見ている。ふと、彼女はどこを目指しているのだろうかと思う。
今日(17日)は、仕事を持ち帰ったため、寄り道は30分か40分で済ませるつもり。こんな時は、馴染みのバーがいい。北口ロータリーを抜け、いつもの道に入り、「ブリック」に向かう。凍ったような空気の中に、やや古びた建物が暖かい灯を点している。店に近づくと、さっとドアが開く。若いバーテンダーさんが「いらっしゃいませ。」と迎えてくれる。
奥のテーブル席は2組のお客さんが入り、カウンターには6人。いつもの常連客ばかりだ。マスターも加わり、話が盛り上がっているところだ。「こんばんは。」と挨拶して、常連の方々の隣の席に座る。目の前に立っているバーテンダーさんに、「毎日寒いですね。」と声を掛ける。「本当に。太陽が恋しいですね。」という返事が返ってくる。
「タンカレーで、ジントニックを。」と注文する。ラベルに自分の名前の書かれたタンカレーのボトルが出てくる。ジンと氷の上にトニックウオーターが注がれると、柔らかな泡がグラスの中で弾ける。そして、レモンスライス・・・「どうぞ。」「どうも。」・・・一口・・・爽快さと甘みが口の中に広がる。身体がすっとリラックスする感じ。
常連さんたちは、この店のゴルフ会のメンバー。マスターを幹事に、もう何十年も続いているそうだ。当然お客さんたちも歳をとるから、メンバーも少しずつ変わっていく。懐かしい人たちの話題で、今盛り上がっているのだ。邪魔をしないように、目の前のバーテンダーさんと話をすることにする。「今晩はまた雪だそうだから、帰りが大変ですね。」「ええ、ちょうど帰る時間にひどくなりそうです。積もらなければいいのですが。」「何時くらいに帰れるんですか。」「店は12時までなんですが、やはり店を出るのは1時くらいになりますね。」「後片づけとか?」「それもありますし、閉店後も残っていらっしゃるお客さんもいらっしゃいますから。」
そんな話をしていると、次々とお客さんが入って来はじめる。口々に「寒いねえ。」と言いながら、マスターに挨拶している。「お2階にどうぞ。」と案内され、グループ客は階段を上がっていく。「忙しくなってきましたね。」「そうですね。この時間は多くなりますね。」「どこかで食事をして、2軒目という幹事かな。」「そういう方も多いです。」「顔がみんな赤いもんね。」「ははは、でもそれは寒さのせいもあるでしょう。」
ジントニックをおかわり。2人の男性が入ってくる。やっぱり顔が赤い。寒さのせい?「お2人様ですか?お2階にどうぞ。」「ねえ、このテーブルじゃだめかな。」と入り口横のテーブルを指差す。「ええ、結構ですよ。どうぞ。」マスターがメニューとおしぼりを持って、そのテーブルに注文をとりに行く。「今日はどうなさいますか?」「今日は飲んできちゃったから、軽めに。カルメン・マキで。」・・・カウンターのお客さんがその洒落に反応して、少し笑う。角のハイボールが用意される。
マスターが古い写真を取り出す。「懐かしいねえ。何年前?」「20年前になりますね。」「へぇ〜、みんな若いねえ。」「なにより腹がでてないよ。」「ほんと、スリムだねえ。」「そうでもないじゃん。」・・・話が弾む。20年前の写真は、さすがに色がくすんで見える。しかし、ゴルフクラブを手に、皆さんの自然な笑顔が、長い年月を超えて眩しい。「このTシャツ、今でも持ってるよ。」「ああ、これ、夏だったんだねえ。みんな半袖だ。」「気持ちよさそうだね。」
懐かしい写真を見せてもらいながら、話を聞かせてもらう。何十年来の常連さんたちの会話は、同窓会の2次会のようだ。その雰囲気が伝わってきて、自分も楽しい気分になる。急に1人のお客さんが席を立つ。「今日は、帰るよ。」「なんで。」「BSでね。映画があるんだよ。『俺たちに明日はない』なんだけど。」「俺たちにも明日はないよなあ。」「いや、ある!」「ある!」「腹の肉もある!」
「ボウモアをオンザロックで。」と注文。皆さんの話が面白いのでもう少しだけ・・・。少年たちのようにからかい合い、冗談を言い合って、笑う。古い酒場のカウンターで育まれる友情というのもあるのだ。自分のような「新しい客」も迎え入れてくれて、楽しい雰囲気を分けてくれる。心優しいオールド・ボーイたち・・・。「2時まで起きてて、みんなでテレビを見ない?」「なんで?」「カーリングの日本対カナダを見ようよ。」「いいねえ。」
「そろそろ、本格的に降り出しそうですね。」とバーテンダーさんが外を見ながら言う。「早くか帰らなくちゃ。」腕時計を見ると9時10分。予定の時間だ。「帰りますね。」と言って立ち上がる。カウンターの皆さんに「お先に。」と声を掛けて、壁に掛けたコートを取り、袖を通す。「じゃあ、おやすみなさい。」「気をつけて。」「ありがとうございました。」
外に出る。雪はまださほどではないが、少しだけ強くなっている。ぱらぱらと風に雪が舞っている。駅前ロータリーの人垣はなくなり、人々がうつむきがちに行き交っているだけだ。強い風が吹き抜けていく。足早に改札口に急ぐ。
Posted by hisashi721 at 17:30│
Comments(2)│
TrackBack(0)