なんともやりきれない仕事を終えて、壁の時計を見るともうすぐ午後8時。今日(24日)の仕事は、人の心の複雑さを感じさせられて、すっきりしないものだった。自分の主張はしたが、相手を傷つけてしまったかもしれないという後悔が胸の中にわだかまっている。それでも、他に何ができたかというと、その答えはない。もう何もする気になれず、職場を後にする。
外に出ると、まるで春の夜のように暖かい。とても気持ちのよい空気に包まれる。空にはラグビーボールのような月が輝いている。心の中の重さは消えないものの、それだけに、いつまでも歩いていたいような気になる。目黒駅前には、穏やかな微風の中、待ち合わせらしき人々が携帯の画面を眺めながら立っている。
高田馬場駅に着いたのは、午後9時前。早稲田口から出て、横断歩道を渡り、左へ。少し歩いて、JR線の線路沿いの道を真っ直ぐ奥に進む。「養老の瀧」チェーンの「一軒目酒場」の明かりが煌々と辺りを照らしている。それを過ぎると、小さな店が並ぶ中に、「nico」という看板を見つけることができる。すぐその横に古びた木のドアがあり、ドアの上には「バーこくてーる」の文字。昭和39年創業のバーだ。
ドアを開ける。中はバーらしく照明がやや暗く設定してある。店はカウンターのみ。入り口から奥に真っ直ぐ8席。奥に立っていたマスターがこちらを見る。「こんばんは。」と声をかけると、「いらっしゃいませ」と笑顔で応えてくれる。先客はなし。奥から3番目の席の前に立って、「ここ、いいですか。」と尋ねると、「どうぞ。」とおしぼりを出してくれる。
赤いスツールに座って、おしぼりで手を拭きながら、「この店では、どういう注文の仕方をすればいいですか?」と聞く。「はい、チャージが・・・」・・・細かい説明を聞いて、角瓶をボトルで注文することにする。「飲み方はどうされます?」「水割りで。」「はい、水割りですね。」・・・グラスに氷を入れて、ウイスキーを直接瓶から注ぐ。水を入れて、バースプーンでステア。その混ぜ方がびっくりするほど滑らかだ。丁寧に、心を込めて・・・50回くらいは回転させたと思う・・・すごい!プロの技だ!
「どうぞ。」水割りのグラスがすっと自分の前に押し出される。では、一口・・・おおおおお!なんとまろやかな口当たりだろう!ウイスキーを水で薄めたという感覚では全くない。ウイスキーの味でも水の味でもなく、違う飲み物のような感じがする。「美味しい、水割りですね。」と思わず声を掛けてしまう。「ありがとうございます。先代から水割りの作り方を教えてもらったときに言われたんです。ウイスキーと氷と水をよく混ぜ合わせることによって、ウイスキーの角が取れると。」・・・なるほど、まろやかなわけだ。
店内のBGMは三輪明宏の「愛の賛歌」。すごい熱唱だ。だが、この店の空間の中では、不自然に感じない。棚には、角瓶がずらりと並び、先代の名バーテンダー岩波さんの写真が飾ってある。シンプルで、すっきりした店内には、本物の心を歌う歌手がふさわしい。聞きほれながら、じ〜んと心が痺れていく。
お通しが出てくる。ポテトサラダと辛い味付けの鳥のから揚げ。ポテトサラダを一口・・・じゃがいもがころっとしている。マヨネーズと塩の味付けがとても素朴でいい。美味しい。水割りは、すいすい喉を通る。すぐに2杯目を注文する。マスターのステアの手際に見とれていると、ドアが開く。1人のお客さんが入ってくる。白髪の芸術家タイプ。
2杯目の水割りが届く。2杯目も、一口目と同じ感動を覚える。それにしても美味しい。いくらでも飲めそうだ・・・。白髪のお客さんは「オンザロック」を注文する。ロックグラスに氷を入れ、ウイスキーを注いで、ステア・・・。え! オンザロックも素晴らしい手際のよさでステアされる。やっぱり50回くらいバースプーンは回転している。白髪のお客さんが一口・・・「う〜ん。最近この店に来ると安らぎを覚えるよ。」「ありがとうございます。」
「お勤めは、このお近くですか?」「いえ、目黒区です。住いは鷺ノ宮なんですよ。」「じゃあ、高田馬場は乗り換え駅ですね。」「それが、つい新宿で降りてしまって・・・。」「ははは、寄り道ですね。」「まさにその通りなんです。新宿か中野、それに阿佐ヶ谷と・・・つい寄り道しちゃって、高田馬場まではなかなかたどり着かなかったんです。」「そうですか。これからは、高田馬場のこの店もよろしくお願いします。」
「新宿はどの辺りのお店に行かれるんですか?」「思い出横丁か、新宿3丁目ですね。」「3丁目は私もよく行きます。」「そうですか。3丁目には取って置きの店があるんですよ。」「どちらですか?」「末広亭を基点にすると・・・。」新宿3丁目の話で盛り上がる。マスターがとても気さくに話し相手になってくれるので、とてもリラックスできる。楽しい。
3杯目の水割りも、同じように感動を持って飲む。2人連れのお客さんが入ってくる。「この前はどうも。」・・・どうやら常連客のようだ。「今日はオンザロックで。」と2人が注文する。あのプロの技で作られたオンザロックが2杯。最初に飲んだお客さんが一言。「水割りとは、また全然違うね。美味しいよ。」「ええ、水割りよりも少しウイスキーを多くして・・・。」・・・素晴らしい!
「最後に、もう1杯水割りを。」と4杯目の水割りを注文する。オンザロックは次の楽しみに取っておこう。今日はこの水割りの感動に浸ろうと思う。水割りを飲みながら、時々マスターと話す。そして、BGMに耳を傾ける・・・これ以上の幸せがあるだろうか。そんな風に思えるくらい、この店は居心地がいい。
4杯目の水割りを飲み終えた頃、新たな2人客が入ってくる。そろそろ、席を立つ頃合だ。「ごちそうさま。」「ありがとうございました。」入ってきたお客さんとすれ違うようにして、ドアに向かう。
外に出る。山手線が頭の上を過ぎていく。人の心は不思議だ。難しく不可解なものであるようにも感じるが、この店での自分のように単純で、分かりやすいものなのかもしれないという気もしてくる。人の心を開くのは、正しく効果的な主張などではなく、丁寧に心をこめた言葉・・・そう、この店の水割りのように・・・。大事なことを忘れそうになったら、またこの店に来よう。柔らかな風に背中を押されながら駅に向かう。
東京都新宿区高田馬場2−19−8 藤村ビル101
03-5272-7372
19:00〜2:00
日祝休
Posted by hisashi721 at 17:30│
Comments(4)│
TrackBack(0)
はじめまして。ただの通りすがりですが、鷺ノ宮、高田馬場、阿佐ヶ谷、広島、それぞれご縁があって、すこし前から愛読しています。最近の筆の冴えはすごいですね。仕事の複雑な気持ちをかかえながら、それが氷解するわけではないけれど、その一方で「一杯」にいやされる感じ……。勝手に共感しております。気持ちよい文、これからも楽しみにしています。ご無理なく、長く続けてください。