午後5時55分、急いで職場を出る。今日は中野の「路傍」に久しぶりに行くつもり。というのも、先週の土曜日、東急多摩川線の「武蔵新田」にあるお店に行ったのだが、それは「路傍」での思い出がきっかけになっている。そのことは前回のブログに書いた通りなのでここには改めて書かないが、その話を「路傍」のマスターに話したいと思ったのだ。路傍の開店は午後6時30分。その時間には間に合いそうもないが、早い時間に行けば、お客さんも少ないかもしれない。多分、職場から路傍までは50分で行けるはず。
山手線外回り電車は、ものすごい混み様。真っ直ぐ立つことすら困難。他人の鞄と肘が身体に突き刺さり、そして、自分の足は色々な人の足とこんがらがっている感じ。新宿まではわずか12分ではあるが、苦しいことこの上ない。やっと新宿駅到着。向かいのホームにちょうど総武線各駅停車「三鷹」行きが入線してくる。大勢の乗客と入れ替わりに乗り込む。さすがに空席はないものの、ゆったりと吊り革につかまって立つことができる。ホッとする。
約5分で中野駅到着。北口の改札を出て、ロータリーを抜け、サンモール商店街に向かう。商店街入り口横の人気の今川焼屋「れふ亭」、立ち食い蕎麦「かさい」には行列。入ってすぐの「鳴門鯛焼本舗」にも行列。今日はとびきり寒いので、待つ人たちも身体を揺らしながら、寒さと闘っている感じ。商店街の中はいつも通り先に進むのも困難なほどの人の流れ。商店街突き当たりのブロードウエイ入り口の手前を右に曲がり小路に入る。少し歩いた角に「路傍」はある。ああ、なんという風情ある佇まいだろう。華やかな街の中にひっそりと暖簾を下しているその姿。素晴らしい。時間は午後6時45分。
戸を開けて店の中に入る。懐かしい店内。7席ほどのカウンター。入り口横の小さな小上がり座敷には先客の白いダウンジャケットとショルダーバッグが置いてある。「こんばんは。」と声を掛けると、カウンターの中の厨房からマスターが「いらっしゃい」と迎えてくれる。コートを脱ぎ、鞄と共に小上がり座敷に置かせてもらう。右から3番目の席に座る。先客は1人。左の一番奥、囲炉裏の前の特等席に座っている。
「升酒をお願いします。」と注文する。目の前には「千福」の4斗樽が2つ。広島の呉のお酒だ。そもそも「千福」は女性の内助の功を讃えて、創業者の妻(千登)と母(福)の名前から一字ずつとって名付けられたということなので、奥様と仲良くお店をやっておられる「路傍」のマスターにはピッタリの酒だなあ、と常々思っていた。
スターが樽の呑み口の線を抜き、流れ出る酒を大きな片口で受け、そして皿の上に置かれた升に並々と注いでくれる。お酒が流れ出る音、注がれる音、全てが心地よい。そして、塩の小皿。その塩を升の角にちょっと乗せて、一口・・・これぞ常温の酒の極み・・・馥郁たる香り・・・滑らかな飲み口、んめー!いくらでも飲めるぞと思わせる爽やかさだ。「斗酒も辞さず」という言葉が頭の中をよぎる。
奥の先客は70歳くらいの男性だが、血色も良く、声も大きい。「今日は本当に寒いねー。」と言う。自分も「この店に来る時、寒くて凍えました。」と答える。「この冬で一番寒いんじゃないか。」と男性客。でも、店の中はとても暖かい。それはファンヒーターがよく効いているのと、なんといっても囲炉裏の暖かさ。囲炉裏には大きな薬缶と鍋。この小さな店が異空間のように感じられる。升酒をぐびり。もうたまりません。
後ろの戸があいて、黒いコート姿の男性が1人入ってくる。「たびたび申し訳ありません。もう一つ、お聞きしたいことがあって引き返してきました。」ん?聞いていると、この男性は、なんと刑事さん。中野通りの事故について調べているらしく、現場近くのお店の連絡先を聞きにきたらしい。「路傍」のマスターはこのあたりの店の重鎮なので、知っているのではないかと聞きにきたのだ。男性客が「じゃあ、〇〇さんに聞いてあげるよ。」とスマホで電話をかけ始める。男性客はイタリア料理店のオーナーだと言うこと。この方も顔が広いようだ。
連絡先がわかり、刑事さんが「ありがとうございました。」と礼をいう。とても腰が低くて、丁寧な喋り方。テレビドラマの刑事のイメージとは違って、優秀な営業マンのような人だ。「自分もお酒が好きなものですから、心が惹かれてしまいますが、仕事ですから、これで失礼いたします。本当にご協力ありがとうございました。」「寒い中、こんな時間まで大変だね。頑張ってね。」と男性客が労う。「はい。地道な仕事ですが、大切なことなので、しっかり努めます。」・・・素晴らしい。
「ところで奥さんは?」と男性客・・・そうそう。「今、買い物に行ってる。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな。」とマスター。「じゃあ、奥さんが帰って来るまで、料理はできないな。」・・・目の前の籠には、ほうれん草や椎茸、ピーマン、なす、エリンギなど美味しそうな野菜が盛ってある。これらで作られる料理はどれも美味しいだろうなと感じさせる。そういえば、この店でつまみを注文した記憶がない。壁にメニューの短冊は貼ってあるが、他のお客さんもあまり注文はしない。升酒を飲んでいるうちに、何か美味しい料理を奥様が出してくれて、それを食べながら、とにかく話をするという感じ。なんといっても、ここは1つの話題でみんなが盛り上がるという店なのだ。
60歳くらいの男性が1人入ってきて、自分の左隣に座る。「お酒をお願いします。」と注文する。出された升酒を静かに飲み始め、時折天井に目をやる。先客のイタリアンのオーナーと自分の間に座っているのだが、まだ、店の話題には加わらない。大縄跳びのように、入るタイミングが難しいのだ。今の話題は長野県小谷村の「雪中キャベツ」。一玉3000円近くする高級品なのだが、とにかく甘くて美味しいとのこと。小谷村は「おたりむら」と読むが、それはなぜか、みたいな会話に逸れていって、さらに、珍しい鹿児島の地名にさらに逸れていく。
後ろの戸が開いて、奥様が帰ってくる。カウンターの中に入って、3人の客に「いらっしゃいませ。」と挨拶する。するとイタリアンのオーナーが「今回はまずまずだよ。食べてみて。」と奥様に言う。「ありがとうございます。ええ、今回は白くていい感じですね。」・・・何かというと、この店のお客さんで、仕事をリタイアして千葉で農園をやっている人がいる。その人が立派な野菜を時々持ってきてくれるのだが、今回、ものすごく大きな大根を届けてくれた。それを、趣味で「べったら漬け」を研究しているイタリアンのオーナーがもらって、べったら漬けを作ってみた。正月に作ったのは、失敗でなんとなく茶色っぽかった。それで今回は慎重に麹や火加減に注意して完成し、今日、店の奥様に味をみてほしいと持ってきたと言うわけ。
奥様は慌てず、小皿にひじきの煮物を盛り、お客の前に置いていく。オーナーはべったら作りの難しさを語る。特に火加減が難しいとのこと。「24時間、本当に小さい火をつけ続けなくてはいけないんだ。それが難しい。」ここで2番目に入ってきた男性客が話に入って来る。「今のコンロは安全装置がついているので、3時間経つと消えちゃいますからね。」オーナーがそれを受けて「そうなんだよ。3時間ごとに起きなくちゃならないんだよね。」と受ける。「よく3時間ごとに起きられましたね。」と自分。「なんとなく雰囲気でわかるんだよ。」「へー。」こうやって、この店はみんなが同じ会話に引き込まれていくのだ。
ひじきの煮物を一口・・・甘さは極限まで控えてある感じ、ひじきや豆の味そのものが美味しい・・・上品な味だなあ。ここで、升酒おかわり。今度は奥様が注いでくれる。話題はコンロの安全装置から、AIによって、人間の感覚が鈍っていくのではないかという方向に向かう。料理でも「これだという感覚」を掴むことが大事で、そのためにはコーティングしてない鉄の鍋とか、勝手に消えないコンロとかそういうものが必要なのではないか、みたいな。
もう1人男性客が入って来る。自分の右側、一番端の席に座る。物静かな感じ。樽酒ではなく、一升瓶の方の注文。燗酒を飲まれるらしい。話題は、AI時代であっても、やはり人間が生きている以上、人と人との関係が一番問題。そういう意味では、人に対する思いやりや、正しさへの感覚が大事みたいな方向になっている。「杉原千畝っていう人は、そういう意味で素晴らしいね。」とオーナーが言う。ここで右隣の男性客が口を開く。「私がジュネーブに駐在していた時にね・・・。」静かな声で語り始める。感心したオーナーが「なるほど。ところで先輩はおいくつになられますか?」「まあ・・・82です。」「見えないなー。若い。」これで、また店が一つになる。
べったら漬けが切られて、お客さんたちに配られる。「ありがとうございます。いただきます。」・・・では、一口・・・シャキッとした歯触り・・・えっ?全く甘くない。塩味。でも沢庵などとは明らかに味が違う。これが麹の力なのか・・・美味しいなあ。「いやー、美味しいです。甘くないのでびっくりしました。」「甘い方がよかったら、味醂と砂糖を加えればいいんだけど。美味しいんならよかった。」「甘さに敵対する路傍にはピッタリだよ。」とマスターが笑う。みなさん「美味しい」と絶賛する。店の空気が和らぐ。
奥様がほうれん草のおひたしを出してくれる。一口・・・味が濃いなあー。茹で方も絶妙・・・美味しいなあ。こうなったら、升酒もう一杯行こうかな。「おかわり、お願いします。」と注文する。「3杯目ですけど、大丈夫ですか?」などとは言われない。なぜなら、オーナーも左隣のお客さんも、もうそれぞれ5杯目、4杯目なのだ。みなさん、とてもピッチが早い。左隣のお客さんは「自分がオーケストラの一員として、ドイツに行った時にね・・・」などと話している。声も大きくなり、よく笑う。右隣の82歳のお客さんも、積極的に話に加わり、笑顔が絶えなくなった。オーナーはさすがに顔がほんのり赤くなったが、大きな声は健在。マスターはお客さんたちの話を上手く引き出し、奥様はしきりに相槌を打ちながら、微笑む。・・・ねえ、これ以上の天国はありますか?
3杯目を飲み終わる。時間を見ると9時を回っている。楽しすぎて、このまま飲んでいたいと思う。でも・・・明日を考えると・・・うーん・・・「すみません。ごちそうさまでした。」「えっ?お帰り?ありがとうございました。」・・・もう少しこの雰囲気に浸っていたいのはやまやまですが・・・。
席を立つ。コートを着ながら、そうだそうだ、武蔵新田だ。「マスター、19年前にこの席で飲んでいた時、青大豆で作った豆腐の美味しさを話してくれましたよね。一度行きたかったんですど、行けずにいたのを、先週行ってみたんですよ。」「ああ、〇〇豆腐店さんの話ね、まだやっておられましたか?」「見つけられませんでした。時間って、油断すると激流のように過ぎ去ってしまいますね。幻の豆腐になってしまいました。」「そうですか。残念でしたね。」
「寒いから気をつけて。」とみなさんから送られて、外に出る。寒い!商店街を駅に向かって歩く。まだまだ人通りは多い。それにしても楽しかったなあ。また来よう。「路傍」幻の店になってしまわないように。
東京都中野区中野5丁目55−17
03-3387-0646
Posted by hisashi721 at 17:33│
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