午後から気温がぐんぐん上がり、上着を脱いでワイシャツ姿で仕事。桜もあっという間に散り、まだ4月も半ばなのに、季節は早くも初夏に向かっているようだ。職場を出たのは午後6時。目黒駅経由で渋谷へ。西口に出て、バスロータリーの横断歩道を渡る。再開発工事でなんとなく不自然な街の様子に失望しながら、東急プラザの右側から裏に回りこむ。そこで、ちょっとした用事を済ませて、さて、今日は?
月曜日というのに、渋谷中央街は大変な人出。ハチ公前スックランブル交差点はさぞやものすごいことになっているだろう。行き交う人々は、歓送迎会の季節でもあり、この春のいい陽気の中、楽しそうな表情で渋谷の街を歩いている。自分は中央街方向に戻り、さらに歩いて、東急井の頭線の高架下をくぐる。マークシティの側面を駅方向に歩く。
パチンコ屋と居酒屋「河童」の間を左に入り、そば処「信州屋」を通り過ぎると、4階建ての古い狭小ビルがある。かつてのように、木の細長い看板は出ていないが、テナントの電光看板の中にしっかりと「居酒屋 芝浜」という文字が見える。螺旋状の外階段を上る。2階のインド料理屋から笑い声が聞こえてくる。さらに上る。3階まで来ると、木のドアが開け放された、懐かしい店が待っていた。
コロナ禍の頃、この店に来たことがある、貼り紙もなく、店は閉まっていて、もしかして閉店したのだろうかと心配していた。コロナ禍もおさまった頃、ネットで調べると、最近は若い客も増えて満席になることが多いとあった。渋谷駅からは5分以内で来られる好立地ながら、路地の奥のちょっと分かりにくい場所にあり、まさに大人の隠れ家という感じの店だったが、やはり、ネットの力は大きい。
店の中に入る。えっ?客がいない。L字カウンターの縦棒の一番上あたりにいるママさんがこちらを見る。「こんばんは。1人です。」と声をかける。「いらっしゃいませ。どうぞ、カウンターに。」という答えを聞いてホッとする。もしかして、今日は営業していないのではないかと一瞬思ったからだ。Lの横棒の右端の席に座る。ああ昔と変わっていないなあと感慨深い。カウンターの上にずらりと並んだ日本酒の瓶。その向こうにいかにも職人っぽいマスターの背中が見える。カウンターは7席。6人掛けのテーブルが2つ、10人くらい座れる大きなテーブルが1つ。何も変わっていない。
「生ビール(エビス600円)をお願いします。」と注文する。しばらくすると、ママさんが、小さなお盆におしぼりと割り箸、お通しと生ビールを乗せて届けてくれる。おしぼりと割り箸はビーニール袋に入っている。どのテーブルにも消毒液が置いてあり、アクリル板はないものの、まだコロナの影響が残っている。
では、生ビールを一口・・・泡が細かい・・・冷えてるなー・・・エビス特有の柔らかな苦味と豊かな風味がいい・・・美味いなー。先週は忙しかったし、今日も神経を使う仕事が多かった。お疲れ様、自分。では、お通し(400円)を、一口・・・ヤリイカと野菜の和物・・・かかっているタレが特別・・・甘辛い感じが良い。美味しいなー。ビール、ビール。
例のよって、マスターもママさんも無言。BGMもかかっていない。聞こえてくるのは、下の階の店から聞こえてくる人の声。微かな街の音。そんな中で、お通しをつまみに生ビールを飲む。渋谷じゃないみたいだ。店の作りは民芸調というか山小屋風というか・・・まさに隠れ家。こんな名店を独り占めしている幸せを噛み締める。では、刺身を・・・「長崎 かつお」とある。今日も「かつお」にしようかな。「すみません。かつおの刺身(900円)をお願いします。」と注文する。
ママさんが、小さなお盆に、かつお刺しの皿と醤油皿、2種類の醤油の瓶を乗せて届けてくれる。ママさんは多くを語らないが、「どうぞ。」と丁寧にお盆を置いてくれるので、その温かい気持ちが伝わってくる。「どうも。」・・・かつおは、先日小岩で食べたものとも、その翌日中野で食べたものとも違う。身が赤く輝いている感じ。「たまり醤油」の方を選んで、一口・・・味が濃く、旨みがすごい・・・脂は少なくて、食べやすいなー。んまい!ビール、ビール。
この前この店に来たのは2006年の11月。その時も、かつお刺しを注文している。ただし、季節が違うので産地は「気仙沼」だった。その6年前に初めてこの店に来のだが、それは居酒屋の名店を特集した雑誌の記事を読んだのがきっかけだ。憧れの店に来ることができて、嬉しかった。その時座ったのは入り口側のテーブル席。この店の話をしたら、ぜひ自分も行ってみたいと、付き合ってくれた女性も「いい店ですね。」と感動していたのを思い出す。
・・・しみじみしちゃったなー、と我ながらおかしくなり、さて、日本酒を注文しようとメニューを眺める。定番の冷酒メニューに加えて、黒板におすすめの日本酒が書いてある。どれにしようかな、と迷っていると。脇に短冊形の紙が貼られているのに気づく。「村上 無想」。黒板に書かれたおすすめの銘柄は、例えば「佐賀 鍋島」とか県名が上に書いてあるのに、「村上」と地名になっているのが特別感がある。そういえば、この前来た時に飲んだのが「〆張鶴」。やはり、村上市の酒だった。
「マスター、無想(750円)をお願いします。」「はい。この酒、評判いいんですよ。」「へー、楽しみです。」・・・それにしても、「無想」とは哲学的かつ文学的な名前だなあ。「無双」でも「夢想」でもないところがいい。楽しみだ。ママさんが、徳利と杯を届けてくれる。徳利には桜の花びらが描かれている。
では、一口・・・微かな酸味・・・ほのかに甘く、香りは華やかだ・・・美味しいなー。飲みやすい・・・ん?何かこの感覚、どこかで・・・もしかして・・・「マスター、夢想の瓶の裏ラベル見せてください。」「どうぞ。」・・・ああ、やっぱり。「大洋盛」だ!味も香りも違うのだが、その精神というか、伝わってくるものが似ている。遥かなる京王線布田の「寿起」を思い出す。マスター元気かな。いろいろ回ってると繋がるなあ。
もう一品何か・・・。だし巻き玉子焼きもいいし、もつ煮込みもいい、刺身をもう一つもいい・・・でも、なんといっても目を引く「白身魚昆布〆からすみ和え(650円)」という短冊。これはきっと酒に合う珍味系料理なんだろうな。「すみません。白身魚昆布〆・・・えーと。」「・・・からすみ和え」「そう、お願いします。」・・・マスターに手伝ってもらっちゃった。
「白身魚昆布〆からすみ和え」が届く。指の先ほどの大きさにカットされた白身魚に粉状のからすみがまぶしてある感じ。一口・・・おお、これこそ旨み成分の塊というか、酒が欲しくなる味。酒、酒。う、美味い!合うなー。これを、一つずつ食べながら、酒をちょいちょい飲んでいるともう無限だな。「マスター、無想をもう一本おかわり、お願いします。」
それにしても、誰も入ってこない。ずっと、自分がこの空間を独り占めしている。マスターと短い会話を少しだけ交わしながら、ゆっくりと酒を飲む。その酒がとびきり美味いと来ている。夢じゃないよな。こんな夜もある。だから、酒場の寄り道はやめられない。
2本目の無想を飲み終えて、今日はここまで。誰かが入ってきて、この夢のような時間が終わる前に。「ごちそうさまでした。」席を立つ。会計を済ませながら、ママさんとマスターに話しかける。「2006年の11月に来て以来だったんですよ。その時もかつおをいただきました。産地は気仙沼でした。そして、村上の〆張鶴を飲んだんですよ。」「そうでしたか。」とママさんもマスターも笑顔になる。「今度は近いうちに来ますね。」「お待ちしています。」
階段を降りて、街に還る。駅前に出ると、むせかえるような人の群れ。眩しいばかりのビルの灯り・・・街は変わっていく。少しだけ待ってくれないか、と空に向かって、呟いてみる。
東京都渋谷区道玄坂2丁目6 美奈津ビル 3F
03-3464-7535
Posted by hisashi721 at 13:18│
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