1946年創業。思い出横丁の中でも最古参の一つ。しかし、初めての人には入りにくい店のひとつだろう。まず、暖簾がない。サッシの戸は解放されていない。どこかの事務所のような感じもする。炭火の焼き鳥がメインのはずだが、あまり焼き鳥を食べている人はいない・・・。年季の入った看板には「ひさご」とある。
平日の午後3時、「藤の家」の帰り、逆に出勤してきた「ひさご」のマスターにバッタリ会った。「あれっ、久しぶりです!」と声をかけると、「久しぶりだねえ。元気だった。」とマスター。これをきっかけに、立ち話を少し。常連のYさんやマスターのお兄さんが去年亡くなったことを聞いて、驚いた。「そんな話をゆっくりしたいから、近いうちに来てよ。」とマスターに言われたら、「ええ、必ず。」と答えるしかない。
というわけで、今にも雨が降り出しそうな夕方、久しぶりにサッシの戸を開けた。「マスター、来ましたよ。」「ああ、いらっしゃい。何年ぶりになる?」「コロナを挟んでですね。」コロナ禍の時期を思い出してみると、思い出横丁も一斉に店を閉じた時期もあり、アルコールを出さずに営業を試みた店もあり、また、批判覚悟で通常営業を一軒だけ始めた店もあり、さまざまだったが、収まるにつれて、店は開いていった。でも、他の店が営業を再開しても、頑なにシャッターが閉まった店が二つあった。それが、「藤の家」と「ひさご」だった。そして、ついに「藤の家」が再開しても、「ひさご」は、なかなかシャッターを開けることはなかったのだ。
「なかなか店を再開しなかったじゃないですか。そうこうしてるうちに来る習慣がなくなってしまったというか・・・。」「まあ、そうだね。分かるよ。」「じゃあ、ビール(500円)ください。」「どっちだっけ?」そうか、サッポロ黒生かスーパードライを選ぶんだったな。そんなところから懐かしさが蘇ってくる。「黒生で。あと、お新香(300円)をお願いします。」と注文する。マスターが冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜き、グラスと共に届けてくれる。そして、階段を上っていく。かつては2階も営業していたのだが、今は食材が入っている冷蔵庫が置かれている。だから、おしんこを取りに行ったわけだ。すぐに降りてきて、白菜漬けを皿にもり、鰹節と醤油をかけて届けてくれる。
では、ビールを一口・・・そうそう、ここのビールは本当によく冷えていて最高なのだ。いいねー。白菜漬けは自家製ではないのだが、塩加減が絶妙でこれもまた美味い。「マスター、相変わらず暖簾出してないんですね。」「金具が壊れたからね。」「それって、コロナ前からそうだったじゃないですか。」「なかなかね。手が回らなくて。でも、ここの椅子は最近直したよ。」赤いビニールを被せた丸い椅子。これもコロナ前から壊れてたよなー。
カウンターの入り口側には真っ赤な顔をしたお客さんが1人。この人、見覚えがあるなあ。あまり話をしたことはなかったと思うが・・・。「こちらね、昔よくきてたお客さん。」とその人に紹介してくれる。「どうも、以前お会いしましたか?」「多分。」そのお客さんは谷中生姜を齧りながら、ビールを飲んでいる。そして、通りを歩く人を眺めている。「お待ち合わせですか?」と尋ねてみる。「いや、綺麗な女の人が歩いてないかなと思って。」がくっ。マスターが言う。「このお客さん、大人しいけど、綺麗な女の人が好きなんだよ。」まあ、それはね。
店もマスターも同じだが、やはり、懐かしい常連たちは誰もいないので、寂しい。マスターの話だと、職場が変わったり、引っ越したり、リストラにあったりと皆さんそれぞれの理由で来なくなったとのこと。誰にも会えないじゃん。ビールを2本飲んで、白菜漬けを食べて1300円。安っ!「じゃあ、マスターまた来ます。」と言って席を立つ。「相変わらず、去り際がいいねー。また来てよ。」「また、来ます。」やっぱり居心地がいいなと思いながら、西武新宿駅に向かう。
・・・というのが1ヶ月少し前のこと。あれから週1回の割合で仕事の帰りに寄っている。4月から勤務形態が少し変わったのと、6月から猛烈に忙しくて、遠くに店に行くこともできず、最近は、帰り道に少しだけ馴染みの店に寄るだけ。「ひさご」にも30分程度寄って、マスターと話をして帰る。店には新しい常連客がいて、話題も随分変わっている。
そして、もう7月も終わりに近づいた今日、また「ひさご」のドアを開けた。時間は午後5時30分ごろ。先客はいない。「いらっしゃい。早いね。」「今日は、久しぶりに、何もなくて。」「それはよかった。」「黒生と湯豆腐(400円)お願いします。」「ええっ、湯豆腐食べるの?この暑いのに。」「先週、常連さんらしい人が湯豆腐を食べてたじゃないですか。冷えたビールと湯豆腐がよく合うって言って。あんまり美味しそうだったから。」「そうか。でも、別になんてことのない湯豆腐だよ。」
この店の豆腐は細長い。それを2つに切って容器に入れてさらに水を足して、レンジで温める。皿にたっぷりの鰹節とカボス、それに醤油と何か調味料。確かにそれだけなのだが・・・「はいできたよ。半分ずつだから、おかわりがあるから、それを食べ終わったら言って。」・・・では一口・・・ああ、美味い!カボスの酸味もいい。「いやー、シンプルだけど美味しいですねー。」「そうかなあ、夏は冷奴の方がいいと思うよ。」
冷たいビールと温かい豆腐。懐かしいカウンター。馴染みのマスターとのたわいもない会話。ここ2ヶ月の疲れが癒やされていく。「この前、お客さんに、同じサッポロでも赤星っていうの?そっちがいいって言われて、何本か仕入れたんだけど。寄り道さんはどっちが美味しいと思う?」「自分は昔から黒生が好きですね。」「そうなんだよね。私も黒生の方が好きなんだよ。」「今は、赤星って人気ですよね。藤の家でも、かつてはキリンかアサヒだけだったけど、今ではお客さんのリクエストで赤星ばかり出てるってママさんが言ってました。」
さて、このタイミングで、質問するかな。・・・実は、ひさごのマスターと再会した日、それは藤の家に行った帰りだったわけだが、あれから、1度も藤の家には行ってない。自分の仕事の形態だと、週に1日、平日の午後が空いているので、午後3時には閉まってしまう藤の家にその日だけ行ける。次の週は忙しくて行けず、その翌週午後2時過ぎに行ったら、シャッターが閉まっていた。お客さんが途切れるとママさんは店を閉めてしまうので、ああ、今日の閉店は早かったんだなと思った。それで、翌週は午前の仕事を早めに終えて午後1時30分ごろ行ってみた。やっぱりシャッターが閉まっている。貼り紙等はない。ママさん体調を崩してしまったのかなー。
あれから1ヶ月以上経ったが、いつ行ってもシャッターは閉まっている。相変わらず貼り紙等はないのだが、もしかしたら・・・。流石に不安になる。そこで、ひさごのマスターに今日聞こうと思って来たのだ。「マスター、藤の家がずっと閉まってるんだけど、何か知ってますか?」「ああ、藤の家さんね。店やめたみたいだよ。」「えっ?・・・突然すぎませんか。」「この前、横丁の組合の役員さんがきてね。藤の家、やめたよって言ってた。」・・・言葉もない。マスターが「突然やめたと言えば、野村ビルにあったパスタ屋さんもね・・・」という話をしているのだた、頭には入ってこない。
最後に行った日を思い出す。あの日も午後2時過ぎに暖簾をくぐった。ママさんは閉店の支度をしている。カウンターにはまだ片付けられていないい酎ハイのグラスとつまみの皿。「さっきお客さんが帰ったから。」「すみません。ママさん、帰るところだったんですね。」「どうぞ、どうぞ。」「じゃあ、ビールを。」・・・何も変わったところもなかったような気がする。その後、お客さんは来なかったので、ママさんと1時間ばかり話した。そういえば、昔の写真を見せてくれたんだった。以前のお客さんの写真。知らない人も多かったが、知っている人もいて、その人たちは驚くほど若い。どの顔を楽しいそうだ。「いい写真ばかりですね。」「でも、みんないなくなってしまった。」ママさんが寂しそうに笑っていた・・・。
「藤の家さん、疲れちゃったのかな。」とマスターが言う。「コロナもあって、お客さんが変わってしまったということもあるんですかね。」そういえば、コロナで連絡を取れなくなった人がいて、ママさんがすごく心配していた。それで、手がかりもないまま、探しに行ったこともあったっけ。「ホントにね。随分変わったよ。」とマスター。
あの日、「ひさご」のマスターに会ったのも何かの縁だろうか。思い出横丁の馴染みの店が繋がった。それにしても、もう、あの店で一緒に飲んだ人たちにも会えないのだろうか。いや、1人だけ連絡先を知っている人がいる。ゴールデン街の「サーヤ」を紹介してくれたFさんだ。Fさんには「サーヤ」でまた会えるだろう。藤の家の思い出話もできるかな。
「マスター、ごちそうさま。また来ますね。」「またね。気をつけて。」サッシのドアを開けて外に出る。ムッとする空気。暑いなー。狭い横丁の通りには外国人ばかりが目立つ。通りを抜けて大ガードの信号を待つ。振り返ると、取り壊された小田急デパートの跡地。あっという間に時代は変わる。いや、それはいつも見えないところで進行していて、ある日それが顕になるのだろう。・・・負けてられないな。そんな気持ちになる。
東京都新宿区西新宿1−2−7
Posted by hisashi721 at 12:33│
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